発達障害の内側から見た世界 名指すことと分かること (講談社選書メチエ)

発達障害の内側から見た世界 名指すことと分かること (講談社選書メチエ)

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発達障害の内側から見た世界 名指すことと分かること (講談社選書メチエ)
によって 兼本 浩祐
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内容紹介 精神科医が自分を振り返り自らに「発達障害」という診断を下したとき、自分というもののあり方、他者との関係や理解はどのように見えてくるのか。ASD(自閉症スペクトラム)、ADHD(注意欠陥多動障害)、DCD(発達性協調運動障害)などの診断名で呼ばれる「発達障害」は病気ではないし、必ずしも「障害」ではない。脳のスペックの傾向であり、そのスペックに適した環境に置かれていないがゆえの不適応と考えるほうがはるかに実態に近い。私のスペックは、たとえば精神科医、牡羊座、A型、DCD、右利き、日本人、大学教授などさまざまに表される。しかし、その中の一つに焦点をあて人としての本質として前景化した形で周りから名指されてしまうと、その「分かられ方」は自分からは切り離され、独自の存在として扱われることになる。物事を認識すること、人を理解することにおいて、人間の思考の営みは常になにかを捨て去り、排他的に対象を輪郭づけようとするのではないか。ゆで卵が生卵からゆで卵に変貌する臨界点はどこにあるのか。人工的に作られた名前が必ずしも「定義」から出発しているとはかぎらず、定義もまた定義づけられた瞬間からその「過不足のなさ」は揺らぐことになる。人を了解すること、人を説明すること、それらの間にはなにか質的な違いがあるのではないか。また自分が自分を分かるということはじつは大きな謎であり、他人のことが分かることの謎へと連続的に連なっている。本書は、著者による発達障害の自分史を事例としてつつ、「私」あるいは「私」と他者との関係の「分かり方」を考察する。名指すことによって分かるのでなく、繰り返し語らい合い、ともに眼差すことによって「分かる」ことへと接近するだろう道筋を探って。 内容(「BOOK」データベースより) 精神科医が自分を振り返り、自らを「発達障害」の一つと診断したとき、自分というもののあり方、他者との関係や理解・了解はどのように見えてくるのだろうか。本来一つにはまとめられない一人間の身体や心の傾向性が、定義づけられた診断名によって一つに名指されることの問題。診断名は説明を可能にするが、それは人を了解することと同じ事態なのか。むしろ何か質的な違いがあるのではないか。互いに「通じる」「分かる」ことへの接近の道を探る。 著者について 兼本 浩祐1957年生まれ。京都大学医学部卒業。現在、愛知医科大学医学部精神科学講座教授。専門は精神病理学、神経心理学。臨床てんかん学。著書に、『なぜ私は一続きの私であるのか』(講談社選書メチエ)、『脳を通って私が生まれるとき』(日本評論社)、『心はどこまで脳なのだろうか』『てんかん学ハンドブック』『精神科医はそのときどう考えるか』(以上、医学書院)、『専門外の医師のための大人のてんかん入門』(中外医学社)、詩集『世界はもう終わるときが来たというので』『深海魚のように心気症を病みたい』『ママちゃりで僕はウルムチに』(以上、東京図書出版)などがある。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 兼本/浩祐 1957年生まれ。京都大学医学部卒業。現在、愛知医科大学医学部精神科学講座教授。専門は精神病理学、神経心理学、臨床てんかん学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
発達障害の内側から見た世界 名指すことと分かること (講談社選書メチエ)を読んだ後、読者のコメントの下に見つけるでしょう。 参考までにご検討ください。
タイトルは『発達障害の内側から見た世界』であるが、あまり真に受けないほうがよい。精神科医である著者が、発達性協調運動障害や注意欠陥多動性障害、また自閉症スペクトラム障害であったことが、幼少期の体験をもとにつまびらかにされているが、タイトルから想像されるように、ここから自閉症者の経験世界の現象学的記述や発達障害の精神病理学的洞察が展開されているというわけではない。この点、読者は肩透かしを食う感じになるし、看板に偽りありと言わざるをえない。では、本書には何が書かれているかといえば、はしがきの以下の文章に著者の問題意識が集約されているとみてよいだろう。「こうした目に見えない『障害』について、診断をする側と診断される側の感覚にずれがあるのか、ずれがあるとすればそれはどこから来るものなのかを少し突き詰めてこの本では考えてみたいと思っています。そのことは、ある状態を脳の病気だと診断することと、心の悩みとして了解することがどうして時には相いれないようになるのか、精神科医はどうしてその生業として精神科医をする時に、心を了解することを時として断念しなくてはならない場面に直面するのか、そういったことと関わっていると、この本を書きながら再確認していくことができました。」要するに、ヤスパースの「説明」と「了解」という概念に関して、著者が周辺分野の知識や架空の症例などを動員しながら著者なりの考えを詳細に語っている、というのが本書の内容である。サブタイトルが『名指すことと分かること』であるから、こちらのほうが本書の内容をより反映しているのだろうが、たしかにメインタイトルとしては面白くはない。それはさておき、ここで注意すべき点は、「説明」と「了解」というと、「説明」は科学主義の貧寒な言説にすぎず、「了解」こそ真に人間学的精神医学の営みである、というありがちな対立図式が頭に浮かぶかもしれないが、本書ではそのような通り一遍の議論が繰り広げられているわけではないということである。著者は、一方で「説明」が生物学的決定論へと変質し理解や対話への努力を損ねてしまいかねないという批判を展開しながら、他方で「了解」というものの意義を説きつつも、「了解」を断念すべき事例、「了解」してはならない場面(つまり物理的介入が必要とされるケース)が現に存在することのほうに強調点を置いているように思われる。このいわば「了解一辺倒」に対する疑念という文脈に沿って、昨今注目を集めるオープンダイアローグに対してもやや懐疑的ともとれる評価が下される。とはいえ、末尾では、医学界に蔓延する正統的な「科学」へと脱皮を遂げることへの強迫的な渇望を諫め、精神医学は常に「芸術」、すなわち眼前の他者との対話の場へと立ち戻る志向性を有していなければならないこともまた強調されており、非常にバランスのとれたスタンスであるように思われた。「説明」と「了解」という精神医学にとって古くて新しい第一義的な問題を、面白おかしい著者の体験談や豊富な題材を取り入れつつ語っているところに、本書の持ち味はあるように思われる。ベルクソンやドゥルーズも参照されるが、けっして小難しいものではなく、読み物としても十分楽しめる内容である。

Angel Neo Bonne Lecture En Ligne Ebooks 2021

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