三好長慶:諸人之を仰ぐこと北斗泰山 (ミネルヴァ日本評伝選)

三好長慶:諸人之を仰ぐこと北斗泰山 (ミネルヴァ日本評伝選)

strong>本, 天野忠幸

三好長慶:諸人之を仰ぐこと北斗泰山 (ミネルヴァ日本評伝選)
によって 天野忠幸
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内容紹介 室町幕府に挑み続けた勇将、戦乱の天下を治めた生涯とは。 三好長慶(1522年から1564年)戦国時代の武将。 足利将軍を追放して首都京都を制圧した三好長慶。 堺を基盤に近畿・四国で十三か国に勢力を伸ばした長慶の新しい政治政策は織田信長の先駆けとされる。また、連歌に優れ、文化人としての逸話も多い。 [目次] はじめに――世界に伝えられた三好氏 第一章 「堺幕府」の崩壊と家督の継承 1 三好氏と阿波、畿内 2 天文の一向一揆 3 越水城主として 第二章 細川晴元・足利義輝との戦い 1 細川晴元からの自立 2 将軍足利義輝との対立 3 畿内制覇 第三章 領国の拡大と幕府秩序への挑戦 1 永禄改元 2 近国の主へ 3 家格の上昇 第四章 三好一族と松永兄弟 1 長慶とその家族 2 長慶を支えた家臣 3 松永兄弟 4 三好三人衆 第五章 領国の統治 1 村落の支配 2 東瀬戸内・大阪湾を制す 3 権力と宗教 4 三好領国の構造 第六章 後継者たちの苦悩 1 足利義輝を討つ 2 長慶の葬礼 参考文献 おわりに 三好長慶略年譜 人名索引 内容(「BOOK」データベースより) 室町幕府に挑み続けた勇将、戦乱の天下を治めた生涯とは。 商品の説明をすべて表示する
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三好長慶は織田信長登場以前に近畿地方のほぼ全域を制圧し、「最初の戦国天下人」とも称せられる武将である。しかし長慶への後世の評価は決して芳しくはない。「優柔不断で暗愚な凡将」「文弱」「松永久秀の傀儡」などなど、酷評ばかりが並べられるような人物であった。しかし最近は今谷明氏や天野忠幸氏らによる再評価が進み、かつてのマイナスなイメージは払拭されつつある。三好氏は阿波国(徳島県)に本拠を置く豪族で足利幕府管領家細川氏の家臣であった。足利将軍家から見れば陪臣であり家格の高い家柄ではなかった。しかし足利幕府や細川氏の勢力が衰えるのと入れ替わるように三好氏の勢力は拡大していった。長慶の父元長は一時は主君細川晴元をしのぐほどの勢威を得たがそれゆえに警戒され謀殺されてしまう。わずか10歳で家督を継いだ長慶は主君にして父の仇である晴元の下での雌伏を余儀なくされる。だが長慶は戦国武将として逞しく成長していく。彼は決して「優柔不断で暗愚な凡将」などではなく、智勇兼備の優れた武将であった。わずか17、8歳の若さで主君晴元や足利将軍家をも凌ぐほどの勢力を持つに至る。その後の状況は敵味方が入り乱れるような混沌とした状況が続くが、長慶は確実に版図を広げ、ついには足利13代将軍義輝や主君細川晴元を京都から追放し畿内の覇者となった。義輝・晴元は長慶と和睦するが以降幕府・管領家ともに長慶の傀儡と化した。1560~61年頃が長慶の全盛期であり、「諸人之を仰ぐこと北斗泰山」と謳われるほどであった。しかし1561年あたりから長慶は心身の衰えが急速に進むようになる。頼りにしていた弟の三好実休と十河一存、そして嫡男の三好義興を相次いで失い、さらには弟の安宅冬康を誅殺してしまう。実権は側近の松永久秀に握られ、長慶は1564年、燃え尽きるように病没する。晩年の長慶の記録は「天下人」であるがゆえに多く残されているが、それらの記録を分析するとどうやら長慶は鬱病を患っていたようである。彼の元来の性格だけでなく幼くして父を殺されたというトラウマ、身内の相次ぐ死、畿内の覇者となった一種の達成感などが鬱病を患った原因と見られる。冬康の誅殺についても従来は松永の讒言によるものとされてきたが、長慶自身の判断力の衰えによるものと見るべきであろう。長慶の政権はやがて来る織田政権の前段階の政権、いわゆる「プレ統一政権」と見なすことができる。長慶は将軍・管領を傀儡化して事実上支配していたが、表面上は彼らの家臣という立場を守り、官位も従四位下修理太夫と平凡であった。体制の構造も旧来の足利幕府の機能をそのまま使っていたため、長慶の政権は彼自身及びその側近たちの個人的能力によって担保されているという非常に不安定な政権であった。また朝廷への影響力も小さく、今谷氏は長慶の政権の立ち位置と構造の特殊性の証左だと指摘している。長慶の健康が衰え、主だった一族の重鎮が相次いで亡くなると政権の求心力が急激に低下していったのは当然のことであった。本書は長慶復権の書であると同時に松永久秀の復権の書である。インモラルな梟雄、下克上の代表として悪名高い人物であり、主君三好氏の実権を握り滅亡へ追い込んだ奸臣というのがこれまでの評価であった。しかし著者天野氏はそれらの従来の評価を否定し久秀は「忠臣」であると断言する。無名の小者から拾い上げられ側近として取り立てられた久秀は三好本家に忠誠を誓っており、実際彼は三好本家の重臣としての立場を守っていた。長慶の嫡男義興の死については久秀による毒殺という俗説があったが実際は久秀は義興の病気を嘆き悲しむ書状を残しており、義興の死後は長慶の養嗣子となった義継(長慶の甥)を懸命に支えた。長慶の死の翌年(1565年)、三好氏の軍勢が足利13代将軍義輝を襲い殺害した。従来は久秀の仕業とされてきたが陣頭指揮を取ったのは義継本人であった。天野氏は義継のこの行動は足利将軍家を必要としない体制構築を指向したものであると指摘する。だが三好氏内部での主導権争いが激化し勢力は減退、三好氏は新しい覇者織田信長の台頭を許し畿内の覇者の地位を失った。義継は個人としては勇猛果敢であったが「天下人」の器ではなく養父長慶には遠く及ばない人物であった。義継も久秀も最後は信長によって滅ぼされ、三好氏の天下は正味10年足らずで終わった。長慶は経済都市として発展していた堺の重要性に着目したり、イエズス会宣教師による布教活動を許すなど、信長の政策を先取りするような政策を実施していた。連歌を愛好する風流人であり、寛容で広やかな度量の持ち主でもあった。天野氏は長慶が主君ではあるが父の仇であった細川晴元と和睦したことについて「敵対したかつての主君を殺さない、執拗に追い詰めないことは、柔弱でも保守的でもない、戦国時代の常識である」と指摘し、優柔不断という長慶への評価に反論している。長慶もって瞑すべし。

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